花神、村田蔵六、おイネさん、司馬遼太郎


1984年11月9日:高知市、日本病院学会特別講演

 

原題:花神・胡蝶の夢をめぐって(未公開講演録愛蔵版Ⅴ:司馬遼太郎が語る日本、朝日新聞社、1999年2月)

 

司馬さんは、終戦直後のある時期、京都大学の記者クラブにいて(6年間)、ほとんど医学部の記事を書いていたそうだ。

 

「カルテもドイツ語から英語に変わっているころでした。島津製作所が電子顕微鏡をつくりまして、物を見る世界が画期的に変化しました。ミクロの世界に入ったのですね。」

ちなみに島津製作所のHPの歴史のページを見ると、やはりそのことが書かれていた。

 

1947年(昭和22年)          電子顕微鏡わが国初の商品化

1951年(昭和26年)          昭和天皇陛下三条工場に行幸

1953年(昭和28年)     直読式発光分析装置を開発

1956年(昭和31年)     わが国初のガスクロマトグラフを開発

1984年(昭和59年)       MRIシステムを開発

 

 ところで、「花神」はNHK大河ドラマでとりあげられた小説だが、蘭学医、村田蔵六(後に大村益次郎)の物語である。岡山出身の緒方洪庵の弟子の一人だった。シーボルトが長崎の遊妓との間の生まれた娘がおイネさんで、宇和島藩に招かれた。蔵六は長州の田舎で開業して流行らなかったが、江戸に出る前に数年間、その藩に仕えていた。妙齢のおイネさんが一人で住むのは不用心ということで、堅物の蔵六を用心棒として、一時期一緒に住んでいたそうだ。

 

 ところで、魯迅の「藤野先生」の作品に出てくる藤野巌九郎先生の甥が、藤野恒三郎という大阪大学の細菌学の名誉教授(腸炎ビブリオの発見者)で、非常な堅物だそうだ。この先生の奥さんが宇和島出身だということで、村田蔵六についても詳しく知っていた。その堅物の教授が司馬さんに、

 

「村田蔵六がおイネさんと住んでいたころ、二人の間に何かあったと思いますか」

という思いがけない質問が出てきた。司馬さんは何もなかったと答えたが、藤野先生は、

「私はあったと思います」と、堅い堅い教授が、実にうれしそうな顔をされていました。

(引用)

 

 蔵六には奥さんがいたが、少しヒステリー的だったそうだ。蔵六がテロルでやられた時に風呂場に逃げ込んだが、たまり水の中のバイ菌が入り亡くなった。何十日か大阪の病院にいたが、奥さんはこないで、おイネさんがずっと看病していたそうだ。横浜から来て看病したが、日本で最初の看護婦の免許の持ち主だったから、看病しても不思議はないが、やはり、並々ならぬことであったのではないかと推論した。

 

「きっと宇和島で何かあったんですな」と言っていた藤野先生も蔵六も堅い人です。何かあったかどうかもおもしろいけれど。村田蔵六を書いてみようと思ったのは、それが始まりのようなものでした。私の場合、小説を書こうかと思い立つ、そのきっかけは、そういうエピソードから始まることが多いようですね。(引用)

 

 おイネさんの役は浅丘ルリ子だったですね。石坂浩二と結婚する前だったか、後だったかは忘れたけれど、このドラマは面白かった。堅物の先生が急に柔らかい話をすると、その内容が記憶に残るものですね。普段の印象と較べて落差が大きいというか、インパクトのある話で面白く脳に記憶されやすい。

 

http://home.q04.itscom.net/nk0515id/pgs/stories/genin_kin.html(今日的感染症の原因菌)

http://homepage1.nifty.com/hidex/goyo/jinmei2.html (間違いやすい人名・番外編)

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