学級崩壊を斬る、吉成真由美さんが語る


                                             学級崩壊を斬る、吉成真由美さんが語る

吉成真由美さんのエッセーの要約を紹介する。(『やわらかい脳のつくり方』(新潮社)より)彼女は元NHKディレクターで、現在サイエンスライターであるが、利根川進教授の奥さんでもある。

1。クラスの人数が少ないこと:

ボストン周辺 公立学校 1クラス22人

私立のよい学校 低学年 12人、高学年 16人

小学校6年生 数学 能力別クラス 1クラス 最大16人

外国語クラス 8人単位

学習の効率や生徒の集中度、心理的な快適度を勘案

(日本では40余りに先生1人)

「ホルモンのアンバランスな思春期の野獣40余匹を、どうやって1人の教師が把握できるというのか」

(コメント:野獣という表現が面白い!性衝動を抑えきれない!)

2。親の学校教育への参加度が高い

「親の集まりは必ず夜7時頃から行われ、両親揃って参加するケースが大半です。(中略)親があらゆる面で積極的に学校に関わっていく。」

3。教科書が分厚い

日本の教科書は薄すぎる。

国語:小学校2、3年から200〜300ページの本を年間8〜10冊、クラスで読む。先生が音読したり、子供たちが自分で読んだりする。

小学5、6年になると、300〜400ページの本をクラス内で10冊、夏休みに5冊読むように、参考リストを渡される。

小学校6年で厚さ5ミリの日本の教科書上下2冊だけ)

理科:小学6年で700ページ。内容は実験の解説や構造説明など。

科学者の話やHIV等の解説など。読み物として十分面白い。但し、リサーチが本筋。

数学や社会科に教科書はないが、プロジェクト毎にプリントや参考書が配られる。

自分で本やインターネットへのアクセス等で資料を集めるので、一つのプロジェクトごとにファイルが1冊が一杯になる。

(コメント:日本のゆとり教育の方針は破綻してしまったが、当然である)

4。教育の指針の違いが大きい

「広く浅く」を放棄して「少なく深く」を採用

知識や思考力というのは、ある事柄を深く良く理解した時にはじめて生ずるのであるから、広く浅く学んだ事は、往々にして忘却の彼方に葬り去られるのに対し、自分で苦労して資料を集め、ディテールまでよく学んだ手法は、他の何事を学ぶ際にも応用できる筈であるという論理に基づく。

教育の主眼:

「自ら問題提起し、それについての資料を、図書館やインターネットを通して調べ、集めた資料をカードに整理し、必要な実験を行い、結果をまとめてレポートを作成する。そして最後に、自分でスライドやポスター、小道具、衣装等を作成して、クラスの皆の前で発表する。終わるとクラスの面々が、発表の良い点だけをほめ合う」

コメント:医療でも採用されているProblem-oriented systemを幼少時から実践している。

幼稚園から小学校2年:

「人間関係のルール」を学ぶこと、「アートと音楽」、「観察能力の開発」

特筆すべきは「他の人の努力をほめる」という方法をとてもよく習う事。

コメント:ほめられると、うれしいものだ。やる気がわいてくる。

小学3年以降

本格的なプロジェクト形式の学習

例:ギリシャ神話、マヤ文明とインカ文明、ヨーロッパ中世史など

知性に対する考え方の違い:

情報そのものをもっている、記憶している-日本式

情報の検索の仕方、得た情報の消化方法を知っている-今のアメリカ方式

教育の潮流変化

複数知能説の台頭

知能は一つではなく、7つ以上の領域に分かれ発達し、その速度も個人差があり、当然個々の生徒は異なった思考回路を持ち、異なった分野を得意とする。

PS:

1)あとがきで、僕が以前、僕の掲示板で書いたのと同じような主張が

書かれていて、うれしかった。

「近頃は、日本の運動会に競争がないところも多いという。足の早い奴と遅い奴を一等二等三等と差別するのは良くないからだとー。ついでに弁当も無いんだとか。立派な弁当を作れない家の子が、かわいそうだから、生徒は運動会でも全員給食なんだというー。

これはハッキリ言って偽善だ。こういう方向の平等というのは、全体主義の不毛と軌を一にする。かけ足の早いものもあれば、算数のできる者もいる。弁当の内容だって千差万別でいいじゃないか。多様な人間の存在を許さない方向に進むのは「平等」の名を借りた「専制」である。

人間の脳には個々に必ず差異がある。差異があるからこそ、文化が生まれ、社会が豊かになる。多様性を内包しない種は、僅かな環境変化に対応できず、すぐ絶滅の危機に瀕する。」

2)ゆとり教育を推進していた、文部科学省の寺脇研氏は左遷されてしまった。

彼に対する批判は以前、このブログで書いた。彼は医者の数は過剰であると、言っていた。

ときどきマスコミに出ている寺脇研氏は、当大学の看護学科の開設記念講演で次のようなことを述べた。

「現在、医者の数は過剰気味で、医科大学の数も多すぎるので、少なくする方向で検討がなされている。この地方では人口が少ないのに三つの県で併せて国立大学が三つもあるのは多すぎる。一つで十分である」(富山・石川・福井県)

「今、転職する人が、多くなっているが、医者が看護婦になったということは、いままで聞いたことはないが、今後そういうこともできるようなシステムを考えたほうがよい」

これを聞いて、僕は切れそうになった。僕が留学していたアメリカでは、看護婦が医者になれるシステムはあるとは聞いたことがあるが、医者が看護婦になるシステムは聞いたこともないし、彼の提案は目茶苦茶で医者を侮辱するものと思った。彼は最初から医者を見下したような話をした。

また、ある雑誌で八木秀次氏が、『日本の教育を牛耳る寺脇研の正体』というタイトルで次のようなことを書いていた。

文部省大臣官房政策課長文部省が打ち出した方針(平成十四年、新学習指導要領):

「ゆとりの中で生きる力をはぐくむ」

八木氏は寺脇氏の著作をほぼすべて検討した結果、寺脇氏が文部省内の世論をリードしているのではないかという感想を抱き、まるで彼個人の経験や思想に基づいて次の教育改革が行われているのではないかと思ったと述べている。

http://search.msn.co.jp/results.aspx?q=http%3A//ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%25AF%25BA%25E8%2584%2587%25E7%25A0%2594 (寺脇研)

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