なだいなだ先生の最後のメッセージ

なだいなだ先生が亡くなられた。ご冥福をお祈り申し上げます。がんの告知に関して、精神科医の同僚に最後のメッセージを残していかれた。

下記の文章は彼の講演会の私のメモ書きである。

2002年7月 なだ いなだ先生の講演会(愛知県多発性硬化症患者のつどい)

モットー:

難しいことはやさしく

やさしいことは深く

普通のことは面白く語る

チェコの作家のチャペックから学んだ。

園芸家12か月(中公文庫):哲学的な本であるが、一番影響を受けた。

パリのサルペトリエール病院のガルサン教授のもとで神経学を学んだ。彼は飛び抜けてすぐれた教授であり、他の弟子との差は明らかであり、彼を超えることは無理だと思った。診断学の達人であった。多発性硬化症の患者が入院しているシャルコー病棟があった。なだいなだ先生はAndré-Thomasに直接指導を受けていた。子供の反射をもっぱら観察していた。

(参考文献:http://www.bitway.ne.jp/ejournal/dion/1416101402.html

連載 神経学を作った100冊(73)

アンドレ-トーマ『小脳―解剖学的・臨床的・生理学的研究』(1897)

作田 学※1 ※1 日本赤十字社医療センター神経内科

アンドレ-トーマ(Andre-Thomas;1867-1963)はパリで生まれ,一生をパリで過ごした。彼は3つの戦争を経験したと常々いっていたが,普仏戦争,第一次世界大戦,第二次世界大戦の3つを経験した神経学者はそうはいないだろう。96歳で亡くなったが,最後まで臨床,特に小児神経学の臨床を行っていたことで有名である。アンドレ-トーマはファーストネームとファミリーネームをハイフンで結んでいるが,アンドレ-トーマが論文を執筆し始めた頃に同姓同名の生理学者がいたらしい。それとの混同を防ぐために,一生をハイフン付きの名前で過ごしたといわれている。

彼はデジュリーヌ(Joseph Jules Dejerine;1849-1917)の弟子として神経学の勉強を始めたが,教授資格試験に落ちたのでサルペトリエール病院にいることはできず,私立のサン・ジョセフ病院の外来勤務医として1901年から1932年まで勤めた。1932年に定年となり,そのポジションを譲るようにいわれたが,外来の片隅で患者を診ることは許された。アンドレ-トーマの著作は30歳で小脳について出版したのを皮切りに,その後はとうとうと淀みなく死に至るまで続いた。単著で『小脳――解剖学的・臨床的・生理学的研究』1)(1897年,356頁),『発汗運動反射』(1921年,vii+242頁),『平衡と平衡取得』(1940年,567頁)を執筆したほか,デジュリーヌとの共著『脊髄疾患』(1902年,470頁,第2版:1909年,839頁),弟子との共著『小脳の局在』2)(1914年,197頁),『体軸』(1948年,538頁),『新生児と乳幼児の神経学的研究』(1952年,434頁),『胎児から生後の運動について』(1963年,vi+165頁)など,いずれも堂々たる書物である。)(引用終了)

ある教授に将来のことを相談しにいったら、薮医者になりなさいと言われた。三種類の患者さんがいる。

1。治療せずに放っておくと死んでしまう患者

2。放っておいても死んでしまわないが、なおらない患者

3。放っておいても自然になおっていく患者

薮医者は第1番目の患者を名医に送ればいい。小説家になりたかったし、勉強もあまりしなかったので、2番目の患者を扱う精神科を選んだ。彼は嘘をつくこともあるそうだと説明した。次の言葉は多分、彼の造語だろう。

ふむふむ療法;患者さんの言葉をふむふむとうなずきながら聞く。ただ聞いているだけでは、おかしく思われるのでときにリズムを変えたり、ふーむとのばしたりする。おうむがえしをするのもよい。

日本で初めてのアルコール中毒患者さんの病棟の担当医師になった。40人が入院したが、多かったので、患者さんが自分からすすんで逃げてもらうために、開放病棟を試みた。しかし、だれも逃げていく患者さんはいなかった。東京からかなり離れていたため、お金がないために脱出しないのではないかと思い、患者さんに1000円を渡した。しかし、だれも逃げようとはしなかった。患者さんにそのわけを聞いたら、退院しても、すぐに入院するはめになるので、入院中はできるだけ優等生でいたいとのことだった。とくに優等生だった患者さんに聞いたら、学校時代は言われたとおりのことをきちんやればよかったが、実際の人生は異なっていた。大海にただひとり放りだされた状態であり、羅針盤がない状態だった。アルコール中毒患者さんの妻の話があったが、現在は夫を許すことはできるが、過去に受けた悲惨な経験は忘れることはできないとのことだった。ずしりと心に応える内容だった。

患者との談話会で、なだいなだ先生が若い時に書いた青春小説で留学していた時のことを書いた内容だったが、そのなかで、多発性硬化症の患者を自殺させてしまった場面を書いてしまったことを思い出し、反省の弁を述べていた。

http://www5.ocn.ne.jp/~nadashig/page008.html (打てば響く2013年)

5月28日

最近の株の暴落。アベノミックスとやらの円安政策に騙されるものも、はじめは多いだろう。しかし、こんな人工的な手段(坊ちゃんたちの考え付きそうな)では、デフレ脱却とやらはできない、とぼくは睨んでいました。『婦人之友』にそのことを書いておきました。

株屋たちが、それをはやして株価を吊り上げていましたが、もうけを得るのは、この辺が限度と考えたのでしょう。それが今度の暴落になったとぼくは見ます。

日本の株でもうけているのは日本の株屋ばかりではありません。儲けを狙う世界中の株の相場師・投機家なども、こういう機会を逃さない。かれらは、ナショナリズムには関係ありませんから、もうけられるのは、これが限度かなあと思えばさっさと手を引く。

そして数か月の浮いた気分も、もう終わりでしょう。日本のマスコミは昔から、どちらかというと政府寄りで、アベノミックスの提灯を持ってきましたが、いまごろ、この騒ぎで一番儲けたのが相場師や投機家で、損をしたのが、これから円安の付けを、諸物価値上げの形で、払わせられる日本の庶民だと気が付いているでしょうか。

でも、株暴落が、参議院選挙の前であったことが、唯一の救いです。

一方で、アメリカに勇ましくケンカを売った維新の会の橋下が、あっけなく降参してしまったのは意外でした。次号のちくまに、少しは頑張るだろうと、見込みを書いてやったのに。ちょっとがっかりでした。維新の会の議員たちが、選挙のために、謝らせたのでしょう。しかし、タイミングが良くない(かれらにとってです)。維新の会の勢いはもうこれで終わりでしょう。つまりかれらも終わり。

現在まで、ひたすら選挙の利害で結びついていた自民・公明の連合ですが、改憲に消極的な公明とは選挙が終わるまで付き合い、あとは維新の会とくっつこうか、とひそかに考えていた自民党の黒幕も、この維新の会の自滅は計算外だったのではないかなあ。

こうして自民の勢いが落ちてきたのに、それに付け込むことのできる野党がいない。野党連合を作る知恵者がいない。つまりは、少しばかり知恵の深い政治家が野党にいないということ。本当に政治家日照りですな。

ぼくは、がんとの付き合いで、なんとか頑張っていますが、白状すると、ちょっときつい。

がんの告知は、本人に、自分の残りの人生を計画させるためには都合がいい。ぼくはその恩恵を受けている。しかし、父、夫が次第に死に近づくということを知らされた近親の者たちには、この告知は、かなりな苦痛を与えている。そのことなど知ったこっちゃない、自分のことで頭はいっぱいだ、といっていられないのが、精神科医である本人。精神科医の同僚たちよ、告知のこうした一面の研究をしてくれないだろうか。それがぼくの今の気持ちだ。

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